わたしはアンドロイドではないから

デトロイトビカムヒューマンというゲームをご存知だろうか。

このゲームのシナリオを一通り見た上で、 わたしが思ったことを以下に書き連ねる。(まだすべての分岐は見ていないが…)

自分はずっとこう思っていた。 生きなければならない理由など、探す必要があるだろうか。 または、死んでもいい理由を探すことはとても簡単な気がしないだろうか?

「生きなければならない理由が存在することを証明する」 なんて、 例えば、エンジニア界隈でよく言われる、 「プログラムにバグが存在しないことを証明する」 のと同じくらい、 存在する(しない)証明のしようがない。

そのようにずっと思っていた。

しかし、デトロイトビカムヒューマンの主人公たちは違う。 なぜか、どんな逆境にあっても、 彼らは「自由でありたい」「生きたい」と願い続ける。

彼らにはずっと、「生きなければならない理由が存在し続けている」ように見える。

彼らをそこまで突き動かすものは一体何なのだろう? 彼らはアンドロイドのはずなのに。

なぜか、彼らは感情を持っているように見えるし、 人間よりも、「生きている」ということに異様に固執しているように見える。 これは人間よりも人間らしい振る舞いな気がしないだろうか?

カーラは言う、 「私は、ただ、私が生きていると思っていた」と。

どうしてカーラはそのように思ったのだろう?

そして、ゲーム内でのアンドロイドたちは、 なぜあれほど人間たちに虐げられ苛まれても、 生きたいと願うのだろう?

わたしはこのことをとても疑問に思った。

わたしたち人間は、 「自分が生きている」ことに 疑問を持ったことはないだろう。 自分が生きているということ自体に関しては、 みな、紛れもない事実だと信じて、 毎日を過ごしていると思う。

しかし、あるいは… 「自分が生きている」ということに、 疑問を持ったらどうだろう? 自分は生きていると「思いこんでいるだけ」で、 本当は生命体ではなかったとしたら?

ここで浮かぶのは、 仮に(本当に)わたしが生命体であったら、 どうアンドロイドとは違っているのか、ということである。

たとえば、 わたしが死んでも、 コナーのように、記憶をアップロードして 同じ型番の主人公に続きの道を歩ませることはできない。

これは、わたしが人間であり、 人生を一回しか与えられていない以上、 アンドロイドのように何回も死んで、 その度に何回も選択し直すことが出来ない ということを意味するのではないだろうか。

つまり、こうも言える気がするのだ。 わたしが選ぶことはすべて 「わたしが選んだ」ということ自体に意味があると。

正しいとか間違っているとか、 些細なことだとか大きな選択だとか、

そういうことはすべて些末なことでしかない。

わたしが死んでも代わりはいくらでもいる と考えたとき、 「わたしの役割の代わりをしてくれる人」が いくらでもいると考えれば、 それは証明できてしまうと思う。

コナーが死んだとき、コナーの代わりを務めたのは、 今までのコナーのメモリをアップロードしたコナーだった。

あるいは、同じ型番のアンドロイドは、記憶を共有できるらしい。

人間であるわたしたちが死んだら、 「わたしの代わり」をしてくれる人はいるのだろうか。

例えば夫は再婚相手を見つけるかもしれないし、 親は養子縁組をするかもしれないし、 または会社はわたしの代わりとなる人を採用するだろう。

しかし、それはあくまでも、「役割」の話に限った場合なのだ。

わたしが死んだとき、 社会生活において、 「わたしの役割の代わり」はいくらでもいる。

だが、また違った文脈において、こうも考えられないだろうか。

「わたしが死んだら、 わたしの代わりに、 わたしの人生を生きてくれる人はいない」 ということを考えれば、これもまた真実と言えないだろうか?

すなわち、わたしがやりたかったことを、 代わりにやってくれる人はいないのだ。 どんな些細な選択であったとしても。

たまに、忙しいときに、 「誰か代わりにトイレ行ってきて〜」なんて 冗談で言ったり言われたりしないだろうか?(わたしだけだろうか?)

でも、それを言う側も言われる側も、 「わかった〜」、なんて軽口を叩きつつも、 それが不可能なことはわかっているのだ。

わたしがやりたい、些細な選択や行動を、 代わりにやってくれる人はいないのだ。

わたしは死ぬことに決めたとする。 わたしは親しい友人に、 生前飼いたかったけど飼えなかったから、 わたしの代わりに犬を飼ってほしい、 と頼んだとする。

でもそれはあくまで、 わたしの代わりにその人に、 「犬を飼う」という 役割と行動を与えただけである。

犬を飼う、という行動は始まりしか示していない。 実際、犬を飼い始めたら 毎日たくさんの選択に迫られるはずだ。

少し想像してみただけでも、 「どうやって?」の連続ではないだろうか?

いつ、どうやって散歩に行かせるか? いつ、どうやって遊んでやるか? いつ、何をどうやって食べさせるか? もう、際限無く選択の繰り返しになるだろう。

これを事細かく死ぬ前に、 その親しい友人に示すことなんて、 まずありえないだろう。

これは自分の人生においても、 同じだと言えないだろうか。

たとえその選択が、

今トイレに行くか行かないか 今寝るか寝ないか 今 YouTube を見るか見ないか 今ご飯を食べるか食べないか 今料理を作るか作らないか

というような、ひとつひとつは些細なことだったとしても。

そういった選択や行動の一つ一つは、 誰にでもできることかもしれない。

しかし、 わたしが死んでしまえば、 わたしの歩いてきた道はそこで断ち切られる。 わたしの歩いてきた道の続きを代わりに歩いてくれる人はいないのだ。

なぜなら、アンドロイドではないから。

しかも、わたしは、この世に複数存在できない。 つまり、わたしと同じ経験や知識や記憶を持つ人は、 この世に複数存在しないのだ。 その経験や記憶がたとえどんなにつらいものであったとしても。

それに、どこかの有名な哲学者も言っていたそうだが、 知識は恐怖の解毒剤となる。

知識となるのは、自分が得た経験や記憶のみであり、 つまり、自分が得た経験や記憶こそが、恐怖を和らげる。

もし仮に、 「わたしの代わり」という人間がいたとしても、 その人は、 現存する「わたし」と同じである、とは言えない以上、 わたしの代わりに、 わたしと同じタイミングで、 わたしの経験をもとに、なにか行動をすることは、 不可能だと言えないだろうか。

例えばご飯を食べたり 料理を作ったり 自分の趣味に合うYouTube を見たりすることは、 わたしの代わりにはできない、と言えないだろうか。

逆に、もし、自分がアンドロイドであったなら、 同じ記憶をインプットし、 同じ人間関係と付き合えば、 一度死んでしまったとしても、 あるいは完璧に「わたしの人生の続き」を歩めるのかもしれない。

すなわち、 役割としての自分には、代わりがいるけれども、 行動を行う主体としての自分には代わりがいない という風に表現できるかもしれない。