スーパーの割引お惣菜と同じ

自殺するほど追い詰められている人が

追い詰められているように見えるはずがないと思う

 

スーパーのお惣菜と同じ

 

みんな同じ値札をつけられ

残れば3割引、半額になり

最終的には捨てられる

 

いじめられて自殺したらいじめたほうが悪いの?

 

いじめたりいじめられたりすることは

スーパーで選ばれるか選ばれないかくらいの違いしかないと思う

 

選ばれなかったから割引になる

どんどん傷んでゆく

 

でも、スーパーで半額なら傷んでるから買わないでおこうってなる?

帰ってすぐ食べるしこれにしようって思って買うよねふつう

 

いじめたほうが悪いというのは、

スーパーでそのお惣菜を選ばなかった人が悪いと言ってるようなもん

 

もちろん現実にはもっとわるいことしてるとおもうけど

そうじゃなくて、

止められないということを言いたい。

 

悪い人を止められないなら

救ってあげる工夫が足りてない世の中の仕組みがわるいんじゃないの?

 

なんでみんな必要以上に個人を責めるの?

そんなんだからみんな自殺するんだよ。

この瞬間にも。

いちばんかなしいときにおもったこと

両親を殺したら一生刑務所にいるのかなぁ

でもスッキリしないだろうし

同じような子供を救えない

今と同じだった
はたちのときも
ひとに嫌なこと言われて傷ついてた
自分の街の成人式にはいけなかった
彼といっしょならっておもって
余計に傷ついてた

いないほうがいいやって思ってた

自己紹介わすれてました

自己紹介わすれてました

わたしについて

わたしは2022年で29歳になる、既婚女性です

宗教2世(&3世)です

一種の虐待サバイバー(ネグレクトサバイバー)です
(殴る・蹴るではありません、食事…はまぁそこそこに、風雨をしのげる家でほとんと不自由のない生活を送りましたが、何があったか詳細は後述します)

不安障害とうつ病を持っています

仕事はエンジニアをしています
雇用形態は派遣社員ですが、ここのところ、
仕事を休むかずっとずっとものすごく、悩んでいます

苦手なことは家族や親戚に会うこと、悪口や心無い言葉を向けられること

好きなことは友達に会うこと、本を読むこと、音楽を聴くこと

生きたいと死にたいの間でずっと息をしている

いつから、というのははっきり覚えていませんが
中学生になった頃から
漠然と、死にたいと考えるようになりました。

中学生の頃、東京事変椎名林檎に出会い、
うまく説明できませんが、彼女の思想に救われた思いがしました。

又聞きの話ですので話半分に読んでいただきたいのですが、
林檎女史は、先天性の病気で、生まれてすぐ死んでしまう可能性があったそうです。しかし医療の力で彼女は命を繋ぎ止め、

自分は人に救ってもらった、という思いを常に持ちながら生きておられたそうです。

しかし、持病の関係もあり、高校生の頃、
幼い頃から続けていたバレエを続けられなくなり、落ち込んでいたそうです。

ちょうどその頃、高校生の女子が自殺をしたというニュースを見たそうで、自分と同じ年頃、まだ若くて未来がたくさんあるのに、なぜ?どうして?と、やりきれない気持ちがあり、

私が音楽で救う、と思い、本格的にも音楽活動を始められたみたいです。

ものすごい行動力を持った彼女の作品にふれ、
わたしが漠然と、

生きなきゃ

と思ったのはおそらく偶然ではないと思います。

宗教について

もう時代が違うので同じ教団はありません
具体的な名前は伏せます
岡田茂吉と言う方が教祖であった、新興宗教の、わたしは2世・3世です
わたしはいまは活動していません。母と父は活動しています

虐待サバイバー(ネグレクトサバイバー)について

母はわたしを生む前からうつ病でした
うつ病の人が子育てするというのは、並大抵の難易度ではありません
母は生まれたばかりでたった3kgもない自分の赤ちゃんを、自分の手で抱っこすることすらままならなかったそうです

わたしがまだ赤ん坊の頃、阪神大震災が起きました
多くの人が犠牲になり、震災による孤児もたくさんふえました

母は、その状況をみて、どんなに自分がつらくても、この子が大人になって自立するようになるまではなんとしてもこの手から離さない、と思ったそうです

さて、時は進み、わたしは赤ちゃんではなくなりました
至って普通のどこにでもいる女の子でした

しかし、病気のとき、私は普通ではありませんでした

死ねない薬は薬ではないと誰かが言ったそうですが、
わたしたちの宗教では、一切の薬を摂取したり、病院にかかることは悪とされ、浄霊という手をかざす行為で治るとされていました

一切の薬を摂取できなかった私は、どんなに下痢になったり嘔吐しても、生理痛がとてもひどくても、虫歯が痛んでも、
とにかく薬を飲まずに耐え、高校生になりました

高校に入り、思えばわたしはもうすでに精神を病んでいました

いろんな無理が祟り、最終的に肺炎を患ったわたしは、
初めてわたしの体が、今尽きようとしていると感じました

そのときは近所の内科の病院に行きました
内科の先生は、なぜもっと早く連れてこなかったのか?と母を問い詰めていました

診察して、点滴をされ、薬をもらいました

わたしはいろいろとショックを受けていましたが、未成年であり、親の言うことは絶対でした

親の言うとおりにすればいいのだとずっとずっと思っていました

家に帰ってすぐ、母は、この薬はもらったけど、捨ててもいいね?と聞かれて、うん、と答えました

薬は母に捨てられてしまい、飲めませんでした

それがわたしを楽にする薬だと知っていたのに、わたしはそれに手を伸ばすことができませんでした

この頃から、もう宗教の教えを守ろうとは思わなくなりました

からだはうごかず、どこにも行けず、両親はただ上から見下ろして手をかざしていました

そんな日々が永遠に続いたように思えました
きっと1ヶ月位経った頃でしょうか

いまの旦那は高校の同級生で、そのとき私の彼氏でした

たかが肺炎のはずが、いくら学校を休んでも治らないわたしの事を、彼は気にしていました。
彼の母もわたしのことを気にしていました。

肺炎でずっと休んでいるし入院しているわけでもないようだが、不思議だねと親子で話していたそうです

彼の母は、お菓子でも持って様子を見に行ったら?あ、でも食べられへんか…などと、心配してくれたのだそうです

彼は、わたしのところに来てくれました
わたしのところに来てくれた彼は神様に見えました

布団から起き上がることもできない私のそばに彼はずっと寄り添ってくれていました

今後、人生で一番幸せな瞬間が更新されないとしたらその時、わたしはもう死んでいたら良かったと思います

わたしはアンドロイドではないから

デトロイトビカムヒューマンというゲームをご存知だろうか。

このゲームのシナリオを一通り見た上で、 わたしが思ったことを以下に書き連ねる。(まだすべての分岐は見ていないが…)

自分はずっとこう思っていた。 生きなければならない理由など、探す必要があるだろうか。 または、死んでもいい理由を探すことはとても簡単な気がしないだろうか?

「生きなければならない理由が存在することを証明する」 なんて、 例えば、エンジニア界隈でよく言われる、 「プログラムにバグが存在しないことを証明する」 のと同じくらい、 存在する(しない)証明のしようがない。

そのようにずっと思っていた。

しかし、デトロイトビカムヒューマンの主人公たちは違う。 なぜか、どんな逆境にあっても、 彼らは「自由でありたい」「生きたい」と願い続ける。

彼らにはずっと、「生きなければならない理由が存在し続けている」ように見える。

彼らをそこまで突き動かすものは一体何なのだろう? 彼らはアンドロイドのはずなのに。

なぜか、彼らは感情を持っているように見えるし、 人間よりも、「生きている」ということに異様に固執しているように見える。 これは人間よりも人間らしい振る舞いな気がしないだろうか?

カーラは言う、 「私は、ただ、私が生きていると思っていた」と。

どうしてカーラはそのように思ったのだろう?

そして、ゲーム内でのアンドロイドたちは、 なぜあれほど人間たちに虐げられ苛まれても、 生きたいと願うのだろう?

わたしはこのことをとても疑問に思った。

わたしたち人間は、 「自分が生きている」ことに 疑問を持ったことはないだろう。 自分が生きているということ自体に関しては、 みな、紛れもない事実だと信じて、 毎日を過ごしていると思う。

しかし、あるいは… 「自分が生きている」ということに、 疑問を持ったらどうだろう? 自分は生きていると「思いこんでいるだけ」で、 本当は生命体ではなかったとしたら?

ここで浮かぶのは、 仮に(本当に)わたしが生命体であったら、 どうアンドロイドとは違っているのか、ということである。

たとえば、 わたしが死んでも、 コナーのように、記憶をアップロードして 同じ型番の主人公に続きの道を歩ませることはできない。

これは、わたしが人間であり、 人生を一回しか与えられていない以上、 アンドロイドのように何回も死んで、 その度に何回も選択し直すことが出来ない ということを意味するのではないだろうか。

つまり、こうも言える気がするのだ。 わたしが選ぶことはすべて 「わたしが選んだ」ということ自体に意味があると。

正しいとか間違っているとか、 些細なことだとか大きな選択だとか、

そういうことはすべて些末なことでしかない。

わたしが死んでも代わりはいくらでもいる と考えたとき、 「わたしの役割の代わりをしてくれる人」が いくらでもいると考えれば、 それは証明できてしまうと思う。

コナーが死んだとき、コナーの代わりを務めたのは、 今までのコナーのメモリをアップロードしたコナーだった。

あるいは、同じ型番のアンドロイドは、記憶を共有できるらしい。

人間であるわたしたちが死んだら、 「わたしの代わり」をしてくれる人はいるのだろうか。

例えば夫は再婚相手を見つけるかもしれないし、 親は養子縁組をするかもしれないし、 または会社はわたしの代わりとなる人を採用するだろう。

しかし、それはあくまでも、「役割」の話に限った場合なのだ。

わたしが死んだとき、 社会生活において、 「わたしの役割の代わり」はいくらでもいる。

だが、また違った文脈において、こうも考えられないだろうか。

「わたしが死んだら、 わたしの代わりに、 わたしの人生を生きてくれる人はいない」 ということを考えれば、これもまた真実と言えないだろうか?

すなわち、わたしがやりたかったことを、 代わりにやってくれる人はいないのだ。 どんな些細な選択であったとしても。

たまに、忙しいときに、 「誰か代わりにトイレ行ってきて〜」なんて 冗談で言ったり言われたりしないだろうか?(わたしだけだろうか?)

でも、それを言う側も言われる側も、 「わかった〜」、なんて軽口を叩きつつも、 それが不可能なことはわかっているのだ。

わたしがやりたい、些細な選択や行動を、 代わりにやってくれる人はいないのだ。

わたしは死ぬことに決めたとする。 わたしは親しい友人に、 生前飼いたかったけど飼えなかったから、 わたしの代わりに犬を飼ってほしい、 と頼んだとする。

でもそれはあくまで、 わたしの代わりにその人に、 「犬を飼う」という 役割と行動を与えただけである。

犬を飼う、という行動は始まりしか示していない。 実際、犬を飼い始めたら 毎日たくさんの選択に迫られるはずだ。

少し想像してみただけでも、 「どうやって?」の連続ではないだろうか?

いつ、どうやって散歩に行かせるか? いつ、どうやって遊んでやるか? いつ、何をどうやって食べさせるか? もう、際限無く選択の繰り返しになるだろう。

これを事細かく死ぬ前に、 その親しい友人に示すことなんて、 まずありえないだろう。

これは自分の人生においても、 同じだと言えないだろうか。

たとえその選択が、

今トイレに行くか行かないか 今寝るか寝ないか 今 YouTube を見るか見ないか 今ご飯を食べるか食べないか 今料理を作るか作らないか

というような、ひとつひとつは些細なことだったとしても。

そういった選択や行動の一つ一つは、 誰にでもできることかもしれない。

しかし、 わたしが死んでしまえば、 わたしの歩いてきた道はそこで断ち切られる。 わたしの歩いてきた道の続きを代わりに歩いてくれる人はいないのだ。

なぜなら、アンドロイドではないから。

しかも、わたしは、この世に複数存在できない。 つまり、わたしと同じ経験や知識や記憶を持つ人は、 この世に複数存在しないのだ。 その経験や記憶がたとえどんなにつらいものであったとしても。

それに、どこかの有名な哲学者も言っていたそうだが、 知識は恐怖の解毒剤となる。

知識となるのは、自分が得た経験や記憶のみであり、 つまり、自分が得た経験や記憶こそが、恐怖を和らげる。

もし仮に、 「わたしの代わり」という人間がいたとしても、 その人は、 現存する「わたし」と同じである、とは言えない以上、 わたしの代わりに、 わたしと同じタイミングで、 わたしの経験をもとに、なにか行動をすることは、 不可能だと言えないだろうか。

例えばご飯を食べたり 料理を作ったり 自分の趣味に合うYouTube を見たりすることは、 わたしの代わりにはできない、と言えないだろうか。

逆に、もし、自分がアンドロイドであったなら、 同じ記憶をインプットし、 同じ人間関係と付き合えば、 一度死んでしまったとしても、 あるいは完璧に「わたしの人生の続き」を歩めるのかもしれない。

すなわち、 役割としての自分には、代わりがいるけれども、 行動を行う主体としての自分には代わりがいない という風に表現できるかもしれない。

いっぱい寝たい

いっぱい寝たい

最近はやっぱ薬のせいか眠れないけど いっぱい寝たらしあわせだなーって思うようになってきた

薬抜くと頭痛がひどすぎて恐ろしいけどよく寝れる感じがする

できれば薬やめたい

あげる

わたしの残りの寿命、きっとたくさんあると思うから

すべての生きたくても余命宣告されて残された時間が少なくなった人にすこしずつあげて

わたしの残りの寿命は0秒になるまで

分け与えてほしい