たぶん、いつ終わるかわからないことが怖いんだと思う。

本は、ページ数がわかっているから、たしかにいつ読み終わるかわからないけど、それを怖いとは思わない。

ミャンマーに行ったとき、ミャンマー語の体験レッスンを、30分でという約束で確か、夫婦で受けさせてもらうことになった。

ミャンマーはとても暑い国で、 当たり前だけど大阪より暑い。

その日私は30分で終わるはずのレッスンがもう1時間くらい経っていると気づいた。

わたしと主人と、まだ若い女ミャンマー人の先生。

3人しか教室にはいなかった。

わたしにはそのあと、ミャンマー人の女の子の友達の家に行くという用事があった。

言葉も通じない地で、英語もできない私は、主人のタイムスケジュールに合わせて行動するしかなかった。

あるいは、行動できたのかもしれない。しかしそのすべを知らなかった。

わたしはパニックになり、レッスンがようやく終わったあと、先生がたくさん見送りをしてくれている前で泣いてしまった。

もちろん主人に怒られた。

その教室は大事なビジネスパートナーとなりうる存在であり、今回の旅行の主目的でもあったからだ。

そんな人の前で泣くなと。 主人にしてみれば当たり前の主張だ。しかしわたしにとってはかつてない恐怖を感じたのだから、泣く以外すべがなかったのも事実だ。

あるいは全て押し殺して今まで生きてきたのかもしれない。

これからもそうやって生きていくのかもしれない

表向き、新婚旅行ということにして、パートを休んでミャンマーなどという国に赴いたわたしだった。

わたしの人生は誰のものなのだろうか。

彼は今、そのミャンマー日本語学校創立者である日本人男性とWeb会議をしている。

わたしはただ、何もせずというか

文字を書いている。

わたしの人生は誰のものなのだろうか。 わたしが決めていいのだろうか。

わたしが決めていいことなんて、何一つないのだろうか。

それともたとえば、すでに死んでしまっていれば、それは私が決めたこととして承認されるのだろうか。