布教所(宗教の集会所)から逃げ出せない夢

布教所はビルのテナントの3階にある。
壁の一面がすべてガラス張りで、部屋の中からは外階段が見え、階段をのぼってくる人、また下りる人が窓をずっと眺めていれば見えた。

布教所に入るときは、靴を脱がなければならない。
そして、布教所の中では裸足はダメなので、たとえサンダルで来たとしても靴下を履かなければならない。
祭典の前には玄関はごった返すし、天井まで高さのある靴箱もいっぱいになる。

そして、荷物は玄関を入ってさらにもう一つ扉を開けて、人混みを掻き分けた先にあるロッカーに入れなければならない。
いつもならこんなに混んでないので、向こうのロッカーまですぐ行けるけれど。

ロッカーと言っても、防犯性はまるでない。ただの水屋か、食器棚のような代物で、今日のような祭典のある日は、ロッカーに収まりきらない荷物はロッカーの上にただ無造作に置いてあるだけだ。

トイレは布教所の外にある。
つまり先ほど靴を脱ぎ入ってきたドアから出る必要がある。

みな、トイレに行くときは共用のスリッパを履いていた。
子供用にゴレンジャーやアニメの柄の入った小さなスリッパも置いてあった。それらは数に限りがあり、誰が履いていったか、来た人と照合すればすぐにわかるので、わたしは好まなかった。

とにかく人混みが嫌だ。辛い。
むせ返るような嫌な臭いがする。
それはもうすぐ死んでしまう人たちが集まったときに放たれる臭いかもしれないし、とにかく嫌な臭いだった。

わたしはお腹が減っている気がする。少し目眩がする。喉もかわいているかもしれない。
ずっと正座してなきゃいけないのが辛い。

おばあちゃんたちのニオイや、
赤ちゃんや知的障害の方の泣き声やうめき声は、
わたしにとっては耐え難い。

なんならしんどくて隅のほうで寝てる人がいる。
そしてそれは母だった。

帰りたい。
はやくかえろうよお母さん、、思っても声を出さない。そもそもしゃべってはいけない。祭典中に音を出してはいけない。ではなぜ赤ちゃんや知的障害者なら大きな声で泣いても許されるのだろうか。

祭典は午後には終わるが、母はそのあとも17時頃まで残る気だろう。

布教所の入っているビルには内廊下があって、内廊下の突き当りにトイレが男女別にある。

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いつもこの夢はトイレから始まる。

ここは女子トイレ。とても古い無機質な、すべてグレーの、蛍光灯で照らされたトイレ。個室は2つしかない。
残りの一つの扉は掃除道具入れ。

ビルには2つテナントが入っていて、もう一つのテナントはおそらく何かの会社だが、土日は休みだから、今日みたいな祭典の日はこのフロアには宗教の信者しかいない。

とりあえず、トイレに行こう。わたしはそう思ったのだ。
急を要する事態なら祭典の途中で出て行ったとしても誰も止めはしまい。

テナントのドアから、スリッパを履いて出る。靴を履いて出たら他の信者に怪しまれるから。
その頃、マジックテープでとめるスニーカーやらサンダルやらを履いていたので、靴を履くと音がするから余計バレる。

とにかく内廊下をひたひたと真っ直ぐに歩き、突き当りのトイレに行く。
ここは3階のトイレだ。

このトイレにずっといたらたぶん、他の信者にトイレにいることがバレる。
バレないように帰りたい。
でもいま私が履いてるのはスリッパ、、 。

こっそり靴を持った上で、スリッパを履いてトイレに行ったらよかったのでは、と今になって思う。

しかし荷物はロッカーにある。

ロッカーから荷物を出したら、皆がなんで?という顔で見るだろう。
荷物は諦めるしかない。

履いてきた靴を履くには、一旦また布教所のドアを開けて部屋に入る必要がある。
今日は祭典の日だから、いつにもまして嫌な臭いがするから入りたくない。
でもスリッパで家に帰るわけにも行かない。

荷物がないから鍵もお金も持ってない。
電車なら家まで一駅だが、教会から駅まではそこそこ歩く。
今日は自転車で来たが、自転車の鍵もロッカーに入れてしまったので持っていない。
自転車で飛ばして30分の距離は、スリッパでは歩いて帰れないだろう。
歩いて帰ったら、帰っている途中で私がいないことに気づいた母親に自転車で追いつかれそうな気もする。
まぁ、、、さっき寝てたしどうなんだろう。

父は仕事でいないから、家で束の間休めるような気もするが、それが何になるんだろう。
そもそも今帰っても後で怒られる。

だいたいいつも、夢はここで終わり、目が覚める。

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父は土日、仕事でいないことが多かった。
そうか、土日には用事をつくり、家にいなければいいんだと思ったのはこのときかもしれない。

家じゃないところに帰ることができるならそこに帰りたいが、そんな場所あるはずない。

なぜわたしをうんだ?

憎しみの感情が湧き出てくる。


しんどそうにすると皆に囲まれて浄霊(目を瞑って、その人に手をかざすこと)されるから、わたしはどこも辛くないように振る舞う。
トイレに長いこといたんじゃないの?と言われようとも、絶対に大丈夫と言い張る。そもそもトイレに行きたかったわけではなかったし。
母のように、教会のすみっこに無様に寝転がって皆に囲まれて浄霊されたりしない。

というか、そういうのって屈辱的に感じないものなのだろうか?
座布団2枚敷けば寝転がれる小柄な母。
身長はすでに母と同じくらいのサイズの私だが、母と同じように、寝転がり、皆に囲まれることは流石にしたくないと思っていた。


母は、その後もずっとしんどかったらしい。

今日は自分の家じゃないところに預けられることになった。
知らない人の家。

知らないというと語弊がある。名前も顔も知っている。
教会の外で会ったことがないだけ。あまり話したこともない。

その人の家に預けられる。
その人の家には私より10歳くらい上の子供が何人かいる。たしか皆女の子だった気がする。

わたしは小学生なのであろう。
自分が何歳なのかもよくわからない。

とにかくその家に預けられる。
今日は、なのか、今晩、明朝までとか、とにかく、いつまでなのか、期限が分からない。不安だ。

というか今日はもうすぐ終わるのに、自分で自転車を漕いでついてきた娘を家に連れて帰ることもできないのだろうか?

とにかく、家に着く。もてなされる。
わたしは偉いから口に合わない物も残さず食べる。
しんどくても、人の家なのだから、寝転がったりはしない。

夕ご飯を食べ終わり、もうすっかり夜だ。
家の人が、ビデオがあるからナウシカだかラピュタだかをみようと気を遣って言ってくれる。

私はそれらは怖いものだとわかっており、それらは見たくなかった。
テレビは点けてほしくない。うるさい音も苦手だ。
でも姉妹の見たいものが優先だ。当たり前だ、とにかくその人たちの家なのだから。

はやくかえりたい。でもどこに?

たぶんこれが死にたい理由。

生まれる前に戻りたい。

でも恐らく、父か母が迎えにきてくれたのだろう。
その家でお風呂に入った、寝た、、という記憶はない。

しかし何度かその後も、色々な人の家に預けられた。
いつ帰れるかは、その度にいつもわからなかった。

なぜわたしをうんだ?

生まれる前に戻してほしい。